2009年6月4日木曜日

天安門事件20周年──論説を「時代の趨勢」で結べる心性について

「六・四」――キャンパスに流れる“平穏” 北京大学生が感じる「特別な時間」(加藤 嘉一/日経BP)

北京大生として当時頑張った先輩たちに敬意を表したいとは思う。でも、今の俺たちには直接関係ないし、何かやろうとすれば今後のキャリアに大きく傷がつくことになる。

「特別な時間」──それは上からの統制と下からの自己検閲を背景として、そこに学生たちの「場」の変化が加わったようなものだろうか?

上の記事で引用されている学生たちの言葉から感じられるのは──もちろん当局による情報統制や歴史教育の問題が大前提としてあるはずだが──、すくなくとも言葉の上で彼らが「連帯」を示し、そこに「参加」し、そこで何らかの「達成」をめざす、その対象が、その「場」が、20年まえとはすっかり変わってしまっているのかもしれないということ。

今、(言葉の上では、というところは強調しておくべきだけど)彼らの多くが「参加」しているのは、エリートたちに用意された特別な「場」、経済的成功や官僚組織内での上昇をめぐるゲームの「場」であって、彼らの栄達は貧困や人権侵害、公害などで苦しむ人びとの中に見出されない、そういうような。

こうした状態に対して──、

このような状況下で、当局が「六・四」に関する一切の情報を封殺し、報道を徹底的に規制しようとするのは、改革開放という国策およびグローバル化という時代の趨勢に逆行している、と感ずるのは筆者だけであろうか
(…)
社会不安を事前に抑えるという観点から、情報統制を図ることは理解に難くない。
(…)
「六・四」が歴史の1ページに刻まれるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。

──としか言えないのが、結局「日本人」なのかもしれない、とも。

こうした論説にはいかようにもツッコミを入れられると思うが、一番気になるところをあげるなら、「時代の趨勢に逆行」していると非難しながら、「もう少し時間が必要なのかもしれない」──つまり“時代の趨勢がそうさせる”(!)ということ──として結んで済ましてしまう/しまえる心性である。

このすばらしい矛盾。“現実”を説明するのに「時代の趨勢」しか、思い付くことができないのだろう。

しかし、「時代の趨勢」が何だろ言うのだろう。そんなものを論じても、学問的にも思想的にも、何も論じたことにはならないし、何も説明したことにはならないのである。それは、自分が「時代」にコミットしていないこと/コミットしたくもないことの告白でしかない。そんな告白は聞きたくない。“こんなオジサンになってはいけない”、そう思う。

そんなことより僕たちがしなくてはならないのは、中国国内や香港、あるいはまた亡命先の国々で活動を続ける人びとを、言葉の上だけででもいいから後方支援することではないのだろうか?

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