2009年8月25日火曜日

新しいことと、これまで通りのこと

■新しいこと

衆院選挙が近づいてきて──というか先の都議会選挙前後からずっとそうなのであるが──、わが家の近辺では幸福実現党の青シャツ衆が毎日のように活動している。

何しろマニフェストがうたう政策というのがめちゃくちゃで、あまりにもヒドイので、オヤは毎日のように憤慨している。(ちなみに党名だけで見ると、「みんなの党」よりはマシではないか、などと思ってしまう。なぜいっそのこと、「国民戦線」とか「民衆運動連合」とかにしなかったのだろうか。そういう意味ではない? ならどういう意味なのだ。)

今朝のニュースでは、その、贈与税や相続税を廃すると堂々と宣言している政党の候補が、小泉息子候補を「世襲」(つまりあらゆる形態の“資本”の、遺産相続もしくは生前贈与)を理由に攻撃しているようすが見られた。こういう噴飯ものを見せられると、目が醒めてよいのはたしか。(血圧操縦の法?)

■これまで通りのこと

今回の選挙でも例のごとく「若者の投票率の低さ」が問題にされている。
若者の意見が政治に反映されないことが問題である──などというけれども、「意見」がないものは言えない。「意見」がないのにあえて言おうとするとNHKのニュースキャスターのようになるのである。(あるいはニュースステーションの古館のようになる、と言い換えてもよい。「意見」を言う準備のない私たちにも「説教」はできる。)

ニュースのナレータがいう「若者の意見」というのが一体何のことを指しているのか、いまいちわからない(たぶんナレータ自身、原稿執筆者自身よくわかっていない)。しかし、「誰それの意見」というのが繁華街の街頭インタビューで、おじさんやおばさんやおにいさんたちがテレビカメラに向かってしゃべっているようなことのことをいうなら、だいぶ簡単である。

ようするに「どの政党が与党になっても一緒」(無気力症の患者の悲壮な告白)、「国政を担える政党(候補)がほかにない」(最悪の食わず嫌い)、「言ったことをきちんと実現できる候補に投票したい」(完ペキな白紙委任状)。あるいは「やはりこういうときは“時局”向けのことでも言ってあげた方が良いだろうか?」。

結局だれが「意見」を述べているというのだろう? 街頭インタビューのようすを見るかぎり「若者の意見」という以前に、ほとんどのひとは──聞かれたときにそれに答える準備ができているという意味で──「意見」を持ってはいないのである。

しかしこれは当然のことではないか、と思う。そしてそうであるにもかかわらず、「若者」が倫理的に非難されるのには、イライラさせられる。白紙委任状の総数が増えたところで何がおこるだろうか? 何も起こらないか、せいぜいがまた日本を「ぶっこわす」候補や政党が当選して、野党の質問にニヤニヤ笑いの不真面目顔で答弁したりするのを毎朝のニュースで拝むことが出来る、その程度ではないだろうか?

大した「意見」がないなら、言うべきではない。しかし「意見がない」という状態を問題にすることは有意味である。実際、国政の利害関係者は有権者すべて(そして選挙権を与えられていない国内在住者すべて)である。にもかかわらず棄権や(さまざまなかたちで)白紙委任状を差し出さねばならない人びとがおびただしく存在することは、重大問題である。

「若者」云々いうのも、例えば──若者は斯く斯く然々の(現在もしくは将来の)悲惨のなかにおり、彼らの多くはこの問題の原因に気付いていない、だから彼らに彼ら自身の置かれている状況を理解させ、彼らを組織して、問題を政治的に解決しなくてはならない──というのならばわかる。けれどもNHKなどがいうのは、こういう種類の「意見」ではない。だからうんざりさせられるのである。

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