イ・ヨンスクの『「国語」という思想』を読んだ後に、水村美苗『日本語が亡びるとき』を読み始めた。
しかも『「国語」という~』の前には、ベネディクト・アンダーソンの『増補 想像の共同体』を読んでいた。
おそらくこの順序がまずかった──否、むしろ幸いしたというべきか。
問題となったのは、三章の「地球のあちこちで〈外の言葉〉で書いていた人々」。
ゼミの課題として読んだのだが、水村の用語法のまずさや、『想像の共同体』の読み込みの乱暴さに終始困惑を覚える章である。
この章のなかで繰り返し使用される、「本質(的)」という語もまた、その使用方法がいかにも軽々しい。
用語法
用語法については、水村は「国語」という用語を、①国民国家以前のエスニックな集団の俗語はもちろん、②ある領域における公用語のようなものについても用いようとしているように思われる。これがまずあまりにも衝撃的で、困惑を引き起こす部分である。これが物書きのすることなのか、と。
この語が、日本の学校教育で教えられる「日本語」を思い浮かべるにしろ、あるいはもっと露骨に日本政府の委員会などを想起するにせよ「公的」「政策的」な意味を負っていることは(僕にとっては)明らかなことと思われるし、何よりも「国家語」ではなく「国語」といえば、それは自然にその「語」の背後に国粋主義的もしくは民族本質主義的とでもいうべき思想が控えていることを示しているように思われる。
122~123ページの、ホモ・サピエンス=叡智のある人=書き言葉の使用者=人類、という等式が成り立ちそうな記述にも大いに疑問が湧いてくる。仮に、ホモ・サピエンス=叡智のある人=書き言葉使用者=人類、という式が成り立つならば、それはメタレベルの「人類」の社会的存在形態の一つでしかない。そうでなければ、無文字社会≠人類社会、という恐るべき「本質」が導き出されるまでである。
想像の共同体
『想像の共同体』の読み込みも(おそらく意図的なものだと思われるが)言語偏重。
とくに「同じ言葉を共有する人たちとは同じ共同体に属する、という思いが生まれてくる」(112ページ)というのは、偏重を超えて、明らかに誤読である。こんな解釈は許されないはずである。実際には、言語は共同体の想像のための必要条件ではあっても十分条件ではない。
言葉(出版語)を共有してれば共同性が想像され、ナショナリズムが生まれ、しまいには「無名兵士の墓」が築かれる──ワケがない。水村の「紹介」は、まるっきり自生的な(spontané)「民族自決」論(言語、宗教、その他の文化を指標にして「民族」は共同体として把握することが可能であり、その共同体が国家を形成することは自然なことであるとする言説、そしてそうした「論理」で国家を正統化する言説)である。
水村は『想像の共同体』に引用されているヘルダーのことばを引いているが(112ページ)、そのヘルダーのことばの直後にアンダーソンが付した軽蔑的もあらわなコメントについては読み飛ばしてしまったようだ。
学問
また、「学問」は「普遍語」──「国語」(水村のいうそれ)よりもはるかに大きな範囲をカバーする言語(ラテン語、漢文、フランス語、今日の英語など)──でなされなければ「本質」に背くと水村はいう。
端的に言って、学問界(という界/場)の相対的独立性を強調しすぎるので、こういうことになるのである。
学問する者たちの「市場」は彼らの「界」の中にのみ存在するのではないし、むしろ彼らはいつも何らかの外部──そう、「貢献する」対象である!(ex. 国民[フォルク])──を想定してきたのであり、近代以降はますますそうであったはずである。
134ページ前後で、「翻訳」の「本質」について述べている部分も、「本質」という言葉が軽い。水村によれば「翻訳」とは、「普遍語」の知識のライブラリから知識を取り出して「国語」(水村のいうそれ)のライブラリを建設・拡充するという作業なのだそうである。しかし〈俗語―国語〉翻訳は〈普遍語─国語〉翻訳に対してここで語るには足らない、というのであればまだしも、前者が「本質」でないとまでするのは乱暴としかいいようがない。
……以上のような次第で、『日本語が亡びるとき』を読む場合には、それなりの「構え」を持って望んだ方がよい、ということになりそうである。
しかも『「国語」という~』の前には、ベネディクト・アンダーソンの『増補 想像の共同体』を読んでいた。
おそらくこの順序がまずかった──否、むしろ幸いしたというべきか。
問題となったのは、三章の「地球のあちこちで〈外の言葉〉で書いていた人々」。
ゼミの課題として読んだのだが、水村の用語法のまずさや、『想像の共同体』の読み込みの乱暴さに終始困惑を覚える章である。
この章のなかで繰り返し使用される、「本質(的)」という語もまた、その使用方法がいかにも軽々しい。
用語法
用語法については、水村は「国語」という用語を、①国民国家以前のエスニックな集団の俗語はもちろん、②ある領域における公用語のようなものについても用いようとしているように思われる。これがまずあまりにも衝撃的で、困惑を引き起こす部分である。これが物書きのすることなのか、と。
この語が、日本の学校教育で教えられる「日本語」を思い浮かべるにしろ、あるいはもっと露骨に日本政府の委員会などを想起するにせよ「公的」「政策的」な意味を負っていることは(僕にとっては)明らかなことと思われるし、何よりも「国家語」ではなく「国語」といえば、それは自然にその「語」の背後に国粋主義的もしくは民族本質主義的とでもいうべき思想が控えていることを示しているように思われる。
122~123ページの、ホモ・サピエンス=叡智のある人=書き言葉の使用者=人類、という等式が成り立ちそうな記述にも大いに疑問が湧いてくる。仮に、ホモ・サピエンス=叡智のある人=書き言葉使用者=人類、という式が成り立つならば、それはメタレベルの「人類」の社会的存在形態の一つでしかない。そうでなければ、無文字社会≠人類社会、という恐るべき「本質」が導き出されるまでである。
想像の共同体
『想像の共同体』の読み込みも(おそらく意図的なものだと思われるが)言語偏重。
とくに「同じ言葉を共有する人たちとは同じ共同体に属する、という思いが生まれてくる」(112ページ)というのは、偏重を超えて、明らかに誤読である。こんな解釈は許されないはずである。実際には、言語は共同体の想像のための必要条件ではあっても十分条件ではない。
言葉(出版語)を共有してれば共同性が想像され、ナショナリズムが生まれ、しまいには「無名兵士の墓」が築かれる──ワケがない。水村の「紹介」は、まるっきり自生的な(spontané)「民族自決」論(言語、宗教、その他の文化を指標にして「民族」は共同体として把握することが可能であり、その共同体が国家を形成することは自然なことであるとする言説、そしてそうした「論理」で国家を正統化する言説)である。
水村は『想像の共同体』に引用されているヘルダーのことばを引いているが(112ページ)、そのヘルダーのことばの直後にアンダーソンが付した軽蔑的もあらわなコメントについては読み飛ばしてしまったようだ。
学問
また、「学問」は「普遍語」──「国語」(水村のいうそれ)よりもはるかに大きな範囲をカバーする言語(ラテン語、漢文、フランス語、今日の英語など)──でなされなければ「本質」に背くと水村はいう。
端的に言って、学問界(という界/場)の相対的独立性を強調しすぎるので、こういうことになるのである。
学問する者たちの「市場」は彼らの「界」の中にのみ存在するのではないし、むしろ彼らはいつも何らかの外部──そう、「貢献する」対象である!(ex. 国民[フォルク])──を想定してきたのであり、近代以降はますますそうであったはずである。
134ページ前後で、「翻訳」の「本質」について述べている部分も、「本質」という言葉が軽い。水村によれば「翻訳」とは、「普遍語」の知識のライブラリから知識を取り出して「国語」(水村のいうそれ)のライブラリを建設・拡充するという作業なのだそうである。しかし〈俗語―国語〉翻訳は〈普遍語─国語〉翻訳に対してここで語るには足らない、というのであればまだしも、前者が「本質」でないとまでするのは乱暴としかいいようがない。
……以上のような次第で、『日本語が亡びるとき』を読む場合には、それなりの「構え」を持って望んだ方がよい、ということになりそうである。
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