2008年12月5日金曜日

「自己満足」言説の自己満足

別に新しいことではない。ボランティアだとか慈善活動だとかのことが友人・知人同士のおしゃべりの中で話題になるとき、「ボランティアってけっきょく自己満足でしょ」という発話がたまに聞かれる。最近も1名そういうのがあった。

一般的には、そもそもこうした発話──「自己満足」言説に真剣に応答するような必要性もないように感じられるので、黙殺可能ならばふつうそうしている。つまるところこの類の言説は、論理的にはナンセンスなものだからである。「おしゃべり」という社会的な場(シャン。champ[field])の中で、生き残る価値のない無意味な発話だからである。しかしこの言説には──現にそれがときたま用いられるということが何よりの証左だと思うのだが──戦術的な意味はあるように思われる。

「自己満足」ということばは何を意味しているのだろうか。それは今日の社会では、「善意」というようなものに対する否定的な/批判的な感情の吐露──というコンテクストとの結びつきが強いということはだいたい言えよう。そうしたコンテクストにおいて、このことばには「独善的」「独りよがり」といった意味も込められていよう。あるいはまた、「効果測定の不可能性」という冷静な視点(もしくはそうした視点を装ったもの)もあるのだろう。

けれども、前者の論点──ボランティアや慈善活動というのは「独りよがり」のものだ──というのは、そうした活動に携わる人びとの意識のレベルでいえば、様々な社会問題の中にある「当事者」に真摯であろうとする努力を根拠もなしに否定することである。そうした発話をすることが、「おしゃべり」の場で有益であり得るわけがない。あるいはもっと冷めた考え方も可能である。もちろんすべての人は意識的であろうと無意識的であろうと自己を満足させるために行為するのだ、と。他人を助けること、他人に奉仕すること、他人のために戦うこと、他人のことを考えること、他人のこころを満足させること、それらの行動の対価も突き詰めれば自分自身の満足という形で支払われるほかはない。「自己満足」言説は、発話の意味のレベルでも、論理のレベルでも、ナンセンスなものである。

それにしてもこうした論理的な(と僕は信じているが)批判というのは、それはそれであまり意味をなさないようにも思われる。それは後者の論点──ボランティアの効果は測定できないししばしば効果はない──についても同じである。こうした発話をする人には、その発話の事実にもかかわらず、そもそも「善意」にもとづく行為の「効果」を「測定」したこともないであろうし、今後もそうするつもりはないであろう。対案を示す意図などさらさらないのである。それは、ようするに自分自身の発話の根拠を度外視した、批判のための批判である。

ではなぜこのようなこと──無意味なコメント、時間の浪費、自分自身の白けをことさらにアピールする醜態、得意満面の「自己満足」非難を押し売りする「自己満足」、自身の社会的地位をあえて危険にさらすような不思慮──がくりかえし行われるのか。
まさに、こうしたナンセンスさと、言説そのものの意味内容が定まらないことから、そしてまた「おしゃべり」の場に参加している当事者の感覚(サン。sens[sense])とから、なんとなしに示唆が与えられている。

この場(「おしゃべり」という場)の中では、ほとんどあらゆる発話はその発話の論理的に意味することを以上の意味を持っている。それは言外の意味であり、場合によってはその場に参加している参加者にもはっきりとは意識されないかもしれない。それどころか、「自己満足」言説の発話者自身ですら意識していない可能性がある。

言外の意味にはさまざまな種類があるように思われるけれども、代表的なもののひとつに相手の「同化」を促す、というのがある。同化とはここではAさんがBさんの「側につく」ということである。それは「おしゃべり」の場で集団を構成しようとする試みである。この行為は実際には「排除」を同時的にともなう。AとBが「同じであること」を示すことは、結局のところCはAともBとも「異なること」を示すことによって達成される。あるいはAは、BやCから自分を区別し、その場には存在しない集団に「同化」することを試みるかもしれない。こうしてみると「同化」のプロセスというのは、社会的アイデンティティ──社会的位置ともいえようしこれ自体がまた「場」でもある──を規定する(規定し合う)プロセスであるともいえよう。

そしてそのためにこの「場」で、戦術的にやりとりされるのが「発話」という単位である。ここには文字通り音信号としてやりとりされるものの他に、メタレベルの言語(ジェスチャや「発話しないということ」など)も含まれる。

さてしかしここまで来て、では「彼ら」はあの無意味な言説(社会学的に有意味な「言説」)を用いていかなることをなそうとしているのだろうか、ということは結局はっきりはしないように思われる。それぞれの発話者の戦術的な意図を知るには、発話者の社会的位置を把握する必要があり、その社会的位置の社会的位置がいかなるものかも考える必要があるだろう。


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