■新しいこと
衆院選挙が近づいてきて──というか先の都議会選挙前後からずっとそうなのであるが──、わが家の近辺では幸福実現党の青シャツ衆が毎日のように活動している。
何しろマニフェストがうたう政策というのがめちゃくちゃで、あまりにもヒドイので、オヤは毎日のように憤慨している。(ちなみに党名だけで見ると、「みんなの党」よりはマシではないか、などと思ってしまう。なぜいっそのこと、「国民戦線」とか「民衆運動連合」とかにしなかったのだろうか。そういう意味ではない? ならどういう意味なのだ。)
今朝のニュースでは、その、贈与税や相続税を廃すると堂々と宣言している政党の候補が、小泉息子候補を「世襲」(つまりあらゆる形態の“資本”の、遺産相続もしくは生前贈与)を理由に攻撃しているようすが見られた。こういう噴飯ものを見せられると、目が醒めてよいのはたしか。(血圧操縦の法?)
■これまで通りのこと
今回の選挙でも例のごとく「若者の投票率の低さ」が問題にされている。
若者の意見が政治に反映されないことが問題である──などというけれども、「意見」がないものは言えない。「意見」がないのにあえて言おうとするとNHKのニュースキャスターのようになるのである。(あるいはニュースステーションの古館のようになる、と言い換えてもよい。「意見」を言う準備のない私たちにも「説教」はできる。)
ニュースのナレータがいう「若者の意見」というのが一体何のことを指しているのか、いまいちわからない(たぶんナレータ自身、原稿執筆者自身よくわかっていない)。しかし、「誰それの意見」というのが繁華街の街頭インタビューで、おじさんやおばさんやおにいさんたちがテレビカメラに向かってしゃべっているようなことのことをいうなら、だいぶ簡単である。
ようするに「どの政党が与党になっても一緒」(無気力症の患者の悲壮な告白)、「国政を担える政党(候補)がほかにない」(最悪の食わず嫌い)、「言ったことをきちんと実現できる候補に投票したい」(完ペキな白紙委任状)。あるいは「やはりこういうときは“時局”向けのことでも言ってあげた方が良いだろうか?」。
結局だれが「意見」を述べているというのだろう? 街頭インタビューのようすを見るかぎり「若者の意見」という以前に、ほとんどのひとは──聞かれたときにそれに答える準備ができているという意味で──「意見」を持ってはいないのである。
しかしこれは当然のことではないか、と思う。そしてそうであるにもかかわらず、「若者」が倫理的に非難されるのには、イライラさせられる。白紙委任状の総数が増えたところで何がおこるだろうか? 何も起こらないか、せいぜいがまた日本を「ぶっこわす」候補や政党が当選して、野党の質問にニヤニヤ笑いの不真面目顔で答弁したりするのを毎朝のニュースで拝むことが出来る、その程度ではないだろうか?
大した「意見」がないなら、言うべきではない。しかし「意見がない」という状態を問題にすることは有意味である。実際、国政の利害関係者は有権者すべて(そして選挙権を与えられていない国内在住者すべて)である。にもかかわらず棄権や(さまざまなかたちで)白紙委任状を差し出さねばならない人びとがおびただしく存在することは、重大問題である。
「若者」云々いうのも、例えば──若者は斯く斯く然々の(現在もしくは将来の)悲惨のなかにおり、彼らの多くはこの問題の原因に気付いていない、だから彼らに彼ら自身の置かれている状況を理解させ、彼らを組織して、問題を政治的に解決しなくてはならない──というのならばわかる。けれどもNHKなどがいうのは、こういう種類の「意見」ではない。だからうんざりさせられるのである。
2009年8月25日火曜日
2009年6月18日木曜日
石原都知事の裸の王様ぶり、それを伝えるTVニュースの裸の王臣ぶり
今朝から報じられているとおり、石原都知事は、17日、ローザンヌ市内のオリンピックミュージアムで、IOCの委員を相手に、「開催計画をアピールするプレゼンテーションを行った」。
そして、他の候補地のプレゼンは見ていないが、と軽やかに自白してみせた上で、東京都の「プレゼンは緻密で完璧」と、自画自賛している。見事な裸の王様ぶりである。とてもことばを商売にする人間の発言とは思えない。
この点、前置きの「自白」も含めて淡々と報道していたNHKの朝のニュースは、その報道の無意味さ──「完璧」というのが事実であろうとなかろうと、とにかくも比較して言っているのではないのだから、当人の思い込みでしかない──は他局と争えないのだが、ある意味で適切な、意地の悪い報道をしているようにもとれる。
毎朝がこのようにして始まるといいのだが…この手のコメディを聞かされるとおもしろおかしさにちょっとは目が覚めるから。
しかしお昼のフジテレビのニュースであったか、上述の石原の自画自賛を真に受けて、「プレゼンは緻密で完璧」というのをあたかも客観的な事実であるかのように紹介、それを土台にして、しかし東京都がアピールしてきたポイントは他の都市もどうようにアピールしているもので…、などと議論をすすめてしまう。
ニュースを創る人びとがニュースに創られる(そして彼らがまたニュースを創る)、というわけ。ともかくお見事な裸の王臣ぶりで、さすがである。
そして、他の候補地のプレゼンは見ていないが、と軽やかに自白してみせた上で、東京都の「プレゼンは緻密で完璧」と、自画自賛している。見事な裸の王様ぶりである。とてもことばを商売にする人間の発言とは思えない。
この点、前置きの「自白」も含めて淡々と報道していたNHKの朝のニュースは、その報道の無意味さ──「完璧」というのが事実であろうとなかろうと、とにかくも比較して言っているのではないのだから、当人の思い込みでしかない──は他局と争えないのだが、ある意味で適切な、意地の悪い報道をしているようにもとれる。
毎朝がこのようにして始まるといいのだが…この手のコメディを聞かされるとおもしろおかしさにちょっとは目が覚めるから。
しかしお昼のフジテレビのニュースであったか、上述の石原の自画自賛を真に受けて、「プレゼンは緻密で完璧」というのをあたかも客観的な事実であるかのように紹介、それを土台にして、しかし東京都がアピールしてきたポイントは他の都市もどうようにアピールしているもので…、などと議論をすすめてしまう。
ニュースを創る人びとがニュースに創られる(そして彼らがまたニュースを創る)、というわけ。ともかくお見事な裸の王臣ぶりで、さすがである。
2009年6月6日土曜日
2009年6月4日木曜日
天安門事件20周年──論説を「時代の趨勢」で結べる心性について
「六・四」――キャンパスに流れる“平穏” 北京大学生が感じる「特別な時間」(加藤 嘉一/日経BP)
「特別な時間」──それは上からの統制と下からの自己検閲を背景として、そこに学生たちの「場」の変化が加わったようなものだろうか?
上の記事で引用されている学生たちの言葉から感じられるのは──もちろん当局による情報統制や歴史教育の問題が大前提としてあるはずだが──、すくなくとも言葉の上で彼らが「連帯」を示し、そこに「参加」し、そこで何らかの「達成」をめざす、その対象が、その「場」が、20年まえとはすっかり変わってしまっているのかもしれないということ。
今、(言葉の上では、というところは強調しておくべきだけど)彼らの多くが「参加」しているのは、エリートたちに用意された特別な「場」、経済的成功や官僚組織内での上昇をめぐるゲームの「場」であって、彼らの栄達は貧困や人権侵害、公害などで苦しむ人びとの中に見出されない、そういうような。
こうした状態に対して──、
──としか言えないのが、結局「日本人」なのかもしれない、とも。
こうした論説にはいかようにもツッコミを入れられると思うが、一番気になるところをあげるなら、「時代の趨勢に逆行」していると非難しながら、「もう少し時間が必要なのかもしれない」──つまり“時代の趨勢がそうさせる”(!)ということ──として結んで済ましてしまう/しまえる心性である。
このすばらしい矛盾。“現実”を説明するのに「時代の趨勢」しか、思い付くことができないのだろう。
しかし、「時代の趨勢」が何だろ言うのだろう。そんなものを論じても、学問的にも思想的にも、何も論じたことにはならないし、何も説明したことにはならないのである。それは、自分が「時代」にコミットしていないこと/コミットしたくもないことの告白でしかない。そんな告白は聞きたくない。“こんなオジサンになってはいけない”、そう思う。
そんなことより僕たちがしなくてはならないのは、中国国内や香港、あるいはまた亡命先の国々で活動を続ける人びとを、言葉の上だけででもいいから後方支援することではないのだろうか?
北京大生として当時頑張った先輩たちに敬意を表したいとは思う。でも、今の俺たちには直接関係ないし、何かやろうとすれば今後のキャリアに大きく傷がつくことになる。
「特別な時間」──それは上からの統制と下からの自己検閲を背景として、そこに学生たちの「場」の変化が加わったようなものだろうか?
上の記事で引用されている学生たちの言葉から感じられるのは──もちろん当局による情報統制や歴史教育の問題が大前提としてあるはずだが──、すくなくとも言葉の上で彼らが「連帯」を示し、そこに「参加」し、そこで何らかの「達成」をめざす、その対象が、その「場」が、20年まえとはすっかり変わってしまっているのかもしれないということ。
今、(言葉の上では、というところは強調しておくべきだけど)彼らの多くが「参加」しているのは、エリートたちに用意された特別な「場」、経済的成功や官僚組織内での上昇をめぐるゲームの「場」であって、彼らの栄達は貧困や人権侵害、公害などで苦しむ人びとの中に見出されない、そういうような。
こうした状態に対して──、
このような状況下で、当局が「六・四」に関する一切の情報を封殺し、報道を徹底的に規制しようとするのは、改革開放という国策およびグローバル化という時代の趨勢に逆行している、と感ずるのは筆者だけであろうか
(…)
社会不安を事前に抑えるという観点から、情報統制を図ることは理解に難くない。
(…)
「六・四」が歴史の1ページに刻まれるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。
──としか言えないのが、結局「日本人」なのかもしれない、とも。
こうした論説にはいかようにもツッコミを入れられると思うが、一番気になるところをあげるなら、「時代の趨勢に逆行」していると非難しながら、「もう少し時間が必要なのかもしれない」──つまり“時代の趨勢がそうさせる”(!)ということ──として結んで済ましてしまう/しまえる心性である。
このすばらしい矛盾。“現実”を説明するのに「時代の趨勢」しか、思い付くことができないのだろう。
しかし、「時代の趨勢」が何だろ言うのだろう。そんなものを論じても、学問的にも思想的にも、何も論じたことにはならないし、何も説明したことにはならないのである。それは、自分が「時代」にコミットしていないこと/コミットしたくもないことの告白でしかない。そんな告白は聞きたくない。“こんなオジサンになってはいけない”、そう思う。
そんなことより僕たちがしなくてはならないのは、中国国内や香港、あるいはまた亡命先の国々で活動を続ける人びとを、言葉の上だけででもいいから後方支援することではないのだろうか?
2009年2月2日月曜日
「解雇」では退職金が払われるから…論のおそろしさ
相撲協会の大麻問題で、大麻所持容疑で逮捕された関取の処分について、連日、「解雇」では退職金が払われるからあくまでも「除名」に、とか、今回のように犯罪を犯したものを解雇する場合に退職金の支払いをしないよう規定を変更しようとか、そういう「議論」がある、ということが報じられていた。
これがマスコミがなかば創作した「議論」ではなく、すくなくともあるレベルでの真実であるならば、どうしようもなく自己破滅的な議論である。
処分される人間の地位が高く、また経済的にも十分な生活を送っているから、この上退職金を払わない、というのならばまだわかる。
しかしスポーツ選手である。そして社会的後ろ盾としてはまったく唯一のものである相撲協会から解雇されるのである。いったい、彼はどのように更正したらよいというのだろうか? 社会的なものも含めてあらゆる資本を失った人間にできることといったら、限られている。
ようするに厳罰化──法的にも社会的にも──の行き着くところは、さらなる犯罪の増加、そして「異分子」として“われわれ”が排除したところの人びとの増加しか呼ばないことは、当然予測されるべき自体である。
実際、こうした事例に限らず、「犯罪者」が法廷の外であらかじめ、そして半永久的に裁かれてしまうということは、マスメディアを通じて「当然のこと」とされているけれども、これは大変な問題である。
これがマスコミがなかば創作した「議論」ではなく、すくなくともあるレベルでの真実であるならば、どうしようもなく自己破滅的な議論である。
処分される人間の地位が高く、また経済的にも十分な生活を送っているから、この上退職金を払わない、というのならばまだわかる。
しかしスポーツ選手である。そして社会的後ろ盾としてはまったく唯一のものである相撲協会から解雇されるのである。いったい、彼はどのように更正したらよいというのだろうか? 社会的なものも含めてあらゆる資本を失った人間にできることといったら、限られている。
ようするに厳罰化──法的にも社会的にも──の行き着くところは、さらなる犯罪の増加、そして「異分子」として“われわれ”が排除したところの人びとの増加しか呼ばないことは、当然予測されるべき自体である。
実際、こうした事例に限らず、「犯罪者」が法廷の外であらかじめ、そして半永久的に裁かれてしまうということは、マスメディアを通じて「当然のこと」とされているけれども、これは大変な問題である。
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2008年12月29日月曜日
「予言者」──つまり当世のご用政治学者・ハンチントンが死んだ
「文明の衝突」のS・ハンチントン氏が死去 | ワールド | Reuters
世界を戯画化し、ベタ塗りの色分けで理解しようという試み、そしてそうした「理解」を相対化できない稚拙な「科学」。
そうして今日の世界情勢を目の当たりにしながら、「西側諸国とイスラム世界との対立を予見した」などと「賛辞」を贈ることに躊躇のないロイターは、三流ジャーナリズム以下である。ようするに彼らは世界を見ずに「世界」を報じているわけである。
ふつうにニュースを見ていれば/読んでいれば、そこにある「世界」で起きていることは、「文明の衝突」などというスペクタクルではなく、小型大型を問わない武器の拡散と、国家による露骨な国際法違反と国際社会の沈黙、そして市民レベルではどうしようもなく短絡的な排外主義、そしてそれを支持基盤としようとする集団の台頭──こういった例のごとく人をして失意させたり憤慨させたりする事実の集まりでしかない。
結局のところ、ハンチントンが「政治学者」でありうるのは、彼がそのどうしようもなく単純化された「予言」によって
マスメディアやデマゴーグたちに奉仕したということ、その事実において限りのことであろう。
米ハーバード大学は、著書「文明の衝突」で西側諸国とイスラム世界との対立を予見した政治学者のサミュエル・ハンチントン氏が24日、マサチューセッツ州の介護施設で死去したと発表した。81歳だった。
世界を戯画化し、ベタ塗りの色分けで理解しようという試み、そしてそうした「理解」を相対化できない稚拙な「科学」。
そうして今日の世界情勢を目の当たりにしながら、「西側諸国とイスラム世界との対立を予見した」などと「賛辞」を贈ることに躊躇のないロイターは、三流ジャーナリズム以下である。ようするに彼らは世界を見ずに「世界」を報じているわけである。
ふつうにニュースを見ていれば/読んでいれば、そこにある「世界」で起きていることは、「文明の衝突」などというスペクタクルではなく、小型大型を問わない武器の拡散と、国家による露骨な国際法違反と国際社会の沈黙、そして市民レベルではどうしようもなく短絡的な排外主義、そしてそれを支持基盤としようとする集団の台頭──こういった例のごとく人をして失意させたり憤慨させたりする事実の集まりでしかない。
結局のところ、ハンチントンが「政治学者」でありうるのは、彼がそのどうしようもなく単純化された「予言」によって
マスメディアやデマゴーグたちに奉仕したということ、その事実において限りのことであろう。
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2008年12月7日日曜日
それとなく規定すること──「女」はあくまでも「女」と
北海道新聞でおもしろい記事を見つけた。
黒木メイサ、男装麗人に挑戦 スペシャルドラマで主演-北海道新聞(文化・芸能)
何が、どこが、おもしろいのか。
おもしろいのは「上半身裸でビーチに行きたい」というのが「大胆発言」とされている部分である。
第1に、黒木が「女性」性と「男性」性とを創り出す/に創り出された境界線を「報道陣」の前に明示していること。「女性」と「男性」とで、それぞれの「世界」の「体験」──つまりやさしくいえば「生活」そのもの──が、いちじるしく非対称であることについて言明していること。その「言明」がその「当人にとって明らか」であるかどうかは、この際問題ではない。それを読んだ「私」に「それ」が伝わっただけで十分である。
第2に、黒木がそうして境界線を示した──つまり「女性」性から「男性」性へと、一時的ではあっても「越境」してみせたことに、この記事を執筆した記者は気づかず、もしくは意図的に無視したこと。つまり記者にとって黒木はあくまでも「女」であって、その「彼女」が「上半身裸」なので、「大胆発言」なのである。そのように考えなければ──異邦人は本国に送還されたと考えなければ、「大胆発言も飛び出し」た、という部分は説明がつかない。
「女性」性の規定(束縛)についてより細かく言えば、記者にとって黒木は「女」である、というレベルと、芸能記事において黒木は「女」である、というレベルがあって、これらが組み合わさっているように思われる。両者の(「記者」個人と「芸能記事」という界の)背後には、社会構造というものが想定される。
黒木メイサ、男装麗人に挑戦 スペシャルドラマで主演-北海道新聞(文化・芸能)
戦時下に美ぼうの女スパイとして、時に“男装の麗人”として名をはせた川島の生涯を描いた物語で、黒木は14歳から35歳までの役に挑戦した。……報道陣から「もし男装できたら何をしたい?」と聞かれると、「体まで(男に)変えることができたら…上半身裸でビーチに行きたい」と大胆発言も飛び出していた。
何が、どこが、おもしろいのか。
おもしろいのは「上半身裸でビーチに行きたい」というのが「大胆発言」とされている部分である。
第1に、黒木が「女性」性と「男性」性とを創り出す/に創り出された境界線を「報道陣」の前に明示していること。「女性」と「男性」とで、それぞれの「世界」の「体験」──つまりやさしくいえば「生活」そのもの──が、いちじるしく非対称であることについて言明していること。その「言明」がその「当人にとって明らか」であるかどうかは、この際問題ではない。それを読んだ「私」に「それ」が伝わっただけで十分である。
第2に、黒木がそうして境界線を示した──つまり「女性」性から「男性」性へと、一時的ではあっても「越境」してみせたことに、この記事を執筆した記者は気づかず、もしくは意図的に無視したこと。つまり記者にとって黒木はあくまでも「女」であって、その「彼女」が「上半身裸」なので、「大胆発言」なのである。そのように考えなければ──異邦人は本国に送還されたと考えなければ、「大胆発言も飛び出し」た、という部分は説明がつかない。
「女性」性の規定(束縛)についてより細かく言えば、記者にとって黒木は「女」である、というレベルと、芸能記事において黒木は「女」である、というレベルがあって、これらが組み合わさっているように思われる。両者の(「記者」個人と「芸能記事」という界の)背後には、社会構造というものが想定される。
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2008年11月24日月曜日
道新2008年10月2日──ビザなし交流ロシア団長「四島 アイヌ民族の国に」
北海道新聞,2008年10月2日,日刊
ビザなし交流 ロシア団長 「四島 アイヌ民族の国に」 領土問題解決へ持論
北方領土ビザなし交流のロシア側訪問団団長,ゲオルギー・クリンスキー氏が,10月1日,札幌でひらかれた元島民との対話集会で,「妥協案として…提案した」とのこと.
「領土問題をめぐって,ロシア側かえあアイヌ民族の存在を重視する発言が出るのは異例」(以上記事本文から引用)という.
団長談「アイヌ民族は日ロ両国の間で大変な苦労を強いられた」,「日ロが協力してアイヌ民族の国をつくり,復権させることで,領土問題の妥協点を見いだせる」,また「ロシア人と日本人の居住についてはアイヌ民族が決めればいい」と.
このとき「日本側」がどのような反応を示したのか,記事はまったく伝えていない.
また同団長の発言はマスメディアで取り上げられたのだろうか?(夏以来,テレビ離れが進んでいるのでわからない.)
ビザなし交流 ロシア団長 「四島 アイヌ民族の国に」 領土問題解決へ持論
北方領土ビザなし交流のロシア側訪問団団長,ゲオルギー・クリンスキー氏が,10月1日,札幌でひらかれた元島民との対話集会で,「妥協案として…提案した」とのこと.
「領土問題をめぐって,ロシア側かえあアイヌ民族の存在を重視する発言が出るのは異例」(以上記事本文から引用)という.
団長談「アイヌ民族は日ロ両国の間で大変な苦労を強いられた」,「日ロが協力してアイヌ民族の国をつくり,復権させることで,領土問題の妥協点を見いだせる」,また「ロシア人と日本人の居住についてはアイヌ民族が決めればいい」と.
このとき「日本側」がどのような反応を示したのか,記事はまったく伝えていない.
また同団長の発言はマスメディアで取り上げられたのだろうか?(夏以来,テレビ離れが進んでいるのでわからない.)
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2008年11月21日金曜日
テレビを見るということ
帰宅すると茶の間のテレビがついていて,オヤが他の作業をしながら見ていた.NHKの9時台のニュース番組.
例の厚生省高官の殺害事件の件を長々と取り扱っていた.
細切れの部分々々──事件現場の新証拠,捜査の進展状況,警察の発表の引用,犯行声明すら出ていないのに「これは大義名分に名を借りたその実殺人のための殺人だ」と断言する「作家」(だがそもそも一体如何なる資格があって彼は口出しするのか),犯行についての当たり障りない解説と「自宅というものは本質的に危ない」というかなり有り難い指摘を授けてくれる犯罪学者,厳戒態勢の厚労省前,「近所」ですらない「住人」の声(それも例のごとくただ一人の!),そしてまた「作家」….
あまりも馬鹿々々しい番組内容──もちろんそのうちでも一番なのはまったく独創的な仕方で犯人像を語って止まない「作家」だけれど,しかしこれら部分々々の寄せ集めであるこのニュース番組そのものがよほど低俗である.
内心がっかりさせられたのは,こうしたニュースに対して,そのニュースをまともに見てもいないオヤが,「うん,やっぱり,そうだとうな」とばかり半ば同意のことばを述べたことである.
こんな見るに堪えない番組を見ながら,同意不同意はともかくまっとうなコメントができるというのは,かなりトレーニングが必要なことではないかと思う.
不図,今日ではNHKの番組のうちで,安心して,無心で,嫌悪を感ぜずに見ていられるのは大相撲と今日の料理くらいのものではないかと考えてしまった.
例の厚生省高官の殺害事件の件を長々と取り扱っていた.
細切れの部分々々──事件現場の新証拠,捜査の進展状況,警察の発表の引用,犯行声明すら出ていないのに「これは大義名分に名を借りたその実殺人のための殺人だ」と断言する「作家」(だがそもそも一体如何なる資格があって彼は口出しするのか),犯行についての当たり障りない解説と「自宅というものは本質的に危ない」というかなり有り難い指摘を授けてくれる犯罪学者,厳戒態勢の厚労省前,「近所」ですらない「住人」の声(それも例のごとくただ一人の!),そしてまた「作家」….
あまりも馬鹿々々しい番組内容──もちろんそのうちでも一番なのはまったく独創的な仕方で犯人像を語って止まない「作家」だけれど,しかしこれら部分々々の寄せ集めであるこのニュース番組そのものがよほど低俗である.
内心がっかりさせられたのは,こうしたニュースに対して,そのニュースをまともに見てもいないオヤが,「うん,やっぱり,そうだとうな」とばかり半ば同意のことばを述べたことである.
こんな見るに堪えない番組を見ながら,同意不同意はともかくまっとうなコメントができるというのは,かなりトレーニングが必要なことではないかと思う.
不図,今日ではNHKの番組のうちで,安心して,無心で,嫌悪を感ぜずに見ていられるのは大相撲と今日の料理くらいのものではないかと考えてしまった.
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2008年10月30日木曜日
サルコジ「のろい人形」の販売差し止め請求は棄却
仏大統領の「のろい人形」、販売差し止め棄却される | 世界のこぼれ話 | Reuters
ムハンマドを風刺漫画にするのがOKなのであれば,こちらは当然OKなのでしょう.
もっとも2つは「風刺」の性格が違いますが.「呪いの人形」もあまり健全な「ユーモア」には思えませんが,重要なのは「表現の自由」を行使する側と「表現される」側の力関係の問題でしょう.
[パリ 29日 ロイター] フランスのサルコジ大統領が、自身の人形をブードゥー教の教本とセットで販売している出版社に対して出版の差し止めを求めていた訴訟で、現地の裁判所は29日、大統領側の請求を棄却した。この教本では、ブードゥー教ののろいの儀式用に、同大統領の人形に針を刺すようになっている。
ムハンマドを風刺漫画にするのがOKなのであれば,こちらは当然OKなのでしょう.
もっとも2つは「風刺」の性格が違いますが.「呪いの人形」もあまり健全な「ユーモア」には思えませんが,重要なのは「表現の自由」を行使する側と「表現される」側の力関係の問題でしょう.
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2008年10月18日土曜日
国境なき記者団がオンライン署名──アンナ・ポリトコフスカヤのために正義を
一昨年の10月7日,ロシア人の記者アンナ・ポリトコフスカヤが何者かに殺害された事件に関連してRSF(国境なき記者団)がオンライン署名を集めています.
Reporters sans frontières - Russie
いわく,
参考: ロシア連邦:表現の自由は窒息寸前 - アムネスティ日本
Reporters sans frontières - Russie
« Justice pour Anna Politkovskaïa »
Nous exigeons la création d’une commission d’enquête internationale pour établir la vérité sur l’assassinat d’Anna Politkovskaïa, le 7 octobre 2006 à Moscou. Nous demandons que la justice soit rendue dans la plus grande transparence et que l’impunité des assassins de journalistes cesse enfin.
いわく,
「アンナ・ポリトコフスカヤのために正義を」
2006年10月7日,モスクワで,アンナ・ポリトコフスカヤが殺害された事件について真実を明らかにするため,国際的な調査委員会の設置を要求します.
私たちは,真実が明らかにされ正義が回復されることを,そしてまたジャーナリストの殺害に対する免責に終止符の打たれることを望んでいます.
- 「Votre nom ou pseude」に名前(もしくは仮名)を,
- 「Votre adresse email」にメールアドレスを入力し,
- 「Valider」ボタンを押すと──
参考: ロシア連邦:表現の自由は窒息寸前 - アムネスティ日本
チェチェンやイングーシなど北コーカサスの人権状況について告発しようとする人権擁護活動家、弁護士、ジャーナリストは、嫌がらせや脅迫を受け続けています。 政府に対する反対意見を表明する自由が急激に失われつつあり、そのことがさらなる人権侵害を助長しています。
2008年10月15日水曜日
環境問題=油流出で漁業被害…だけっ?
道新2008年10月14日(火)日刊2面──「サハリン2」完成間近 日ロ潤す巨大基地
年明けにもLNGの出荷をはじめる予定のプロジェクト「サハリン2」についての記事.地図や写真を動員しているが,ようするに単なる広告記事.
記事の終盤で「ただ,環境面では課題が残る」などいうが,その「環境面」の課題として紹介されているのは,「油の流出事故が起きれば,漁業は大打撃を受けかねない」ということだけである.
実際には事故云々以前に,同プロジェクトで建設されたパイプラインの周囲で,当初約束されていたはずの土壌回復措置がしかるべく実施されていないなどの問題が指摘されている(にもかかわらず日本の国際協力銀行は融資を決定している).
ある地域の生態系とそれを構成する生物・非生物は,長期的かつ多面的な視点でその地域の資源と見なすべきものであると思う.しかし多くの人にとっては,カネ──短期的な損得──のみが意味のあることなのだろう.あさましいことではある.
参考:
FoE Japan | 開発金融と環境プログラム | ロシア:サハリン石油開発
年明けにもLNGの出荷をはじめる予定のプロジェクト「サハリン2」についての記事.地図や写真を動員しているが,ようするに単なる広告記事.
記事の終盤で「ただ,環境面では課題が残る」などいうが,その「環境面」の課題として紹介されているのは,「油の流出事故が起きれば,漁業は大打撃を受けかねない」ということだけである.
実際には事故云々以前に,同プロジェクトで建設されたパイプラインの周囲で,当初約束されていたはずの土壌回復措置がしかるべく実施されていないなどの問題が指摘されている(にもかかわらず日本の国際協力銀行は融資を決定している).
ある地域の生態系とそれを構成する生物・非生物は,長期的かつ多面的な視点でその地域の資源と見なすべきものであると思う.しかし多くの人にとっては,カネ──短期的な損得──のみが意味のあることなのだろう.あさましいことではある.
参考:
FoE Japan | 開発金融と環境プログラム | ロシア:サハリン石油開発
無意味な調査報道の一例
中国の一人っ子政策世代、性交渉に葛藤も=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters
それで本文はといえば,世代間での比較,同種の過去の調査結果などとの比較などは文字通り皆無で,これまた何が言いたいのかさっぱりわからない.
中国で「一人っ子政策」導入後に生まれた30代前半までの世代を対象にした性意識調査が初めて行われ、かつてより性交渉には開放的だが葛藤も感じ、一夜限りの関係には否定的という姿が明らかになった。15日付の中国青年報が報じた。実のところ,この記事の見出しである「一人っ子政策世代」という部分は,記事の内容に先入観を持たせる以上の役割を持っていない.記事の中で「一人っ子政策」による何か心理的な影響があった云々述べられているわけではない.
それで本文はといえば,世代間での比較,同種の過去の調査結果などとの比較などは文字通り皆無で,これまた何が言いたいのかさっぱりわからない.
2008年10月12日日曜日
「韓国の」インターネット広告?
ライバル店ネット広告を大量不正クリックした男を逮捕 国際ニュース : AFPBB News
このタイプの課金方法はGoogleやYahoo!が世界的に用いているし、なによりも、広告表示とその課金方法は、国土に限定されるわけがない。
韓国のインターネット広告は、まず依頼主がサイト運営者に広告料金を前払いするシステムだ。その広告がクリックされるたびに一定額が差し引かれ、残金がゼロになれば広告は消える。「韓国の」という修飾は、あきらかに不適切だと思う。
このタイプの課金方法はGoogleやYahoo!が世界的に用いているし、なによりも、広告表示とその課金方法は、国土に限定されるわけがない。
2008年10月9日木曜日
へんな世論調査の報告記事
中日新聞:「仕事より家族」8割 「大家族望む」も60% 世論調査:社会(CHUNICHI Web)
そもそも「どちらかといえば~」以外にどんな選択肢があったのか(これは調査の結果に影響しないわけもないので気になるところ)が記されていないし、そんな大雑把な分析(新聞記事用とはいえ)ですませてしまうのだったら、そもそも「どちらかといえば~」などというのは、回答者の自由・勝手な回答を封殺するための予防線でしかないわけである。
また、
「祖父や父が大黒柱」というのはイエ制度の問題で、「父は仕事、母は家庭」は性別分業の問題である。
「夫婦も親子も何でもよく話し 合う」というのはもちろん家庭内コミュニケーションの問題で、「個人として互いに過度に干渉しない」というのは、これは個人の態度の問題である。
このような分類法(?)は、なるほど「世論」としてはありうることで、“社会を測る科学的な指標としては無意味ですが、社会を測る科学の研究の対象とするならばおもしろいですね”(論理的には不自然な分類法を「われわれ」は自然に受け入れている)、という一段高次のレベルでこの調査結果を見ていくならばいいのですが、どうもこの記事はそんな雰囲気ではありません。
祖父母や父母、子どもなどが同居する大家族で暮らしたい人が60%に上ることが、本社加盟の日本世論調査会が9月20、21日に実施した「家族」に関する全国面接世論調査で分かった。「仕事より家族の幸せを優先」という答えも「どちらかといえば-」を合わせ81%に達するなど、世代を問わず強い家族志向が浮き彫りになった。この記事を読んでまず気になるところは、回答の比率をしめすのにしばしば「どちらかといえば─を含めると」と言っていること。
そもそも「どちらかといえば~」以外にどんな選択肢があったのか(これは調査の結果に影響しないわけもないので気になるところ)が記されていないし、そんな大雑把な分析(新聞記事用とはいえ)ですませてしまうのだったら、そもそも「どちらかといえば~」などというのは、回答者の自由・勝手な回答を封殺するための予防線でしかないわけである。
また、
自分の家族のタイプを聞くと、「祖父や父が大黒柱」の“前近代型”が14%、「父は仕事、母は家庭」の“近代型”が34%、「夫婦も親子も何でもよく話し 合う」という“友達型”が31%、「個人として互いに過度に干渉しない」という“自立型”が19%と分散。今の自分の家族に「満足している」「どちらかと いえば満足している」は計91%だった。というのも何だかおかしな部分で、「前近代型」などのおそるべきステレオタイプはもちろんアレだけれど、その上4つの「家族のタイプ」が明らかに対等なカテゴリではないのである。
「祖父や父が大黒柱」というのはイエ制度の問題で、「父は仕事、母は家庭」は性別分業の問題である。
「夫婦も親子も何でもよく話し 合う」というのはもちろん家庭内コミュニケーションの問題で、「個人として互いに過度に干渉しない」というのは、これは個人の態度の問題である。
このような分類法(?)は、なるほど「世論」としてはありうることで、“社会を測る科学的な指標としては無意味ですが、社会を測る科学の研究の対象とするならばおもしろいですね”(論理的には不自然な分類法を「われわれ」は自然に受け入れている)、という一段高次のレベルでこの調査結果を見ていくならばいいのですが、どうもこの記事はそんな雰囲気ではありません。
2008年10月7日火曜日
フランス語のH(アッシュ)
仏外相、英語インタビューで「H」発音せずに誤解生む | 世界のこぼれ話 | Reuters
フランス語ではHは絶対に発音しないから、それで間違ってしまったのか、あるいは、あくまでもフランス語の文法に従って英語というデファクトスタンダードに挑戦したのかしら。
僕もやってみようかな、英語話せないけど。
フランスのベルナール・クシュネル外相が5日、英語で話した際にフランス式に「H」を発音しなかったことから、意味が変わって伝わってしまうという出来事があった。ちょっとおもしろいかも :-)
フランス語ではHは絶対に発音しないから、それで間違ってしまったのか、あるいは、あくまでもフランス語の文法に従って英語というデファクトスタンダードに挑戦したのかしら。
僕もやってみようかな、英語話せないけど。
2008年10月5日日曜日
北海道新聞は記事の公開を制限したらしい
すこし前から感づいてはいたけれども、北海道新聞はオンラインでの記事の公開を制限したらしい。
「アイヌ民族」というキーワード──とその他いくつかのキーワード──でGoogleアラート・サービスを利用しているが、これがまったく機能しなくなった。
Googleニュースには多少道新由来のニュースが表示されるから、Googleの検索対象からはずれた、というわけではない。
北海道新聞のサイトでも、最新ニュースもすこし前のニュースも、ほとんど検索ができなくなっている。有料のデータベースを利用してください、ということらしい。
「それは、ま、そうですよね。」とも思う。
とはいえ、これでインターネット空間における、アイヌ問題に関するほとんど唯一と言っていい巨大なニュースソース──というかデータソースが消えてしまったわけで、そのこと自体はあまり「そうですよね」では済ませられない問題に思える。
「アイヌ民族」というキーワード──とその他いくつかのキーワード──でGoogleアラート・サービスを利用しているが、これがまったく機能しなくなった。
Googleニュースには多少道新由来のニュースが表示されるから、Googleの検索対象からはずれた、というわけではない。
北海道新聞のサイトでも、最新ニュースもすこし前のニュースも、ほとんど検索ができなくなっている。有料のデータベースを利用してください、ということらしい。
「それは、ま、そうですよね。」とも思う。
とはいえ、これでインターネット空間における、アイヌ問題に関するほとんど唯一と言っていい巨大なニュースソース──というかデータソースが消えてしまったわけで、そのこと自体はあまり「そうですよね」では済ませられない問題に思える。
2008年9月28日日曜日
さすが麻生内閣,どうしようもない閣僚を入れている
もちろん,自民党のお歴々の「失言」は,以前から,失言や誤解などではなく完全に確信犯による攻撃行為にほかならないのだけど,なるほどこの「連発」ぶりはすごいかもしれない.
26日に謝って,27日にはまたやっている.
(ただし当人は北海道ウタリ協会や千葉県知事・成田市長にはちゃんと「謝って」いるけれども,日教組には謝っていない.なので27日のそれは,いかなる意味においても「失言」などではなく,攻撃を意図した誹謗中傷ということになる.)
新聞紙上などでみると,いちおう「保守の論客」ということになっているらしいが──本人もきっとそれで悦に入っているのである──これは単なる差別主義者である.
「日本は単一民族国家」という認識も,成田空港建設問題についての認識も,またもちろん大分県教委の不祥事は日教組のせいで,同県の児童の学力が低いのも日教組のせいで…という認識も(まずもってこの人の「学力」が疑われるべき),あきらかに佐藤裕のいう「同化」言説──A(差別者)は,B(被差別者)を「排除」する行為を通じて,C(共犯者)を「同化」して「われわれ」をつくろうとする──そのものであると思う.
ようするにこの(元)大臣は,アイヌ民族や琉球・沖縄,在日外国人といった人びとに代表される──日本列島社会を構成するさまざまなエスニシティを持つ人びとを無視し「排除」することによって,同質的な「われわれ」(日本人)を語り,空港建設に抗議した人びとのことを「ごね得」などといって非難することで(「ごねれば得」というのは実際にはありえないことだ),「公」のためには自分を犠牲にできる「われわれ」を称揚し,しまいにはどこかの教育委員会の不祥事の原因を日教組に着せて,自分たちを浄化している.
河村官房長官や野田聖子消費者担当相にとっては,これは人びとを「誤解」させる発言なのだそうだが,もちろんそれは,それこそ彼らの「誤解」以外のなにものでもない.国交相の発言──だけに限らず自民党のみなさんの「失言」のすべて──は「誤解」というレベルのものではない.だって,誰が聞いたって,間違いようもなく,差別発言じゃない,と.
26日に謝って,27日にはまたやっている.
(ただし当人は北海道ウタリ協会や千葉県知事・成田市長にはちゃんと「謝って」いるけれども,日教組には謝っていない.なので27日のそれは,いかなる意味においても「失言」などではなく,攻撃を意図した誹謗中傷ということになる.)
新聞紙上などでみると,いちおう「保守の論客」ということになっているらしいが──本人もきっとそれで悦に入っているのである──これは単なる差別主義者である.
「日本は単一民族国家」という認識も,成田空港建設問題についての認識も,またもちろん大分県教委の不祥事は日教組のせいで,同県の児童の学力が低いのも日教組のせいで…という認識も(まずもってこの人の「学力」が疑われるべき),あきらかに佐藤裕のいう「同化」言説──A(差別者)は,B(被差別者)を「排除」する行為を通じて,C(共犯者)を「同化」して「われわれ」をつくろうとする──そのものであると思う.
ようするにこの(元)大臣は,アイヌ民族や琉球・沖縄,在日外国人といった人びとに代表される──日本列島社会を構成するさまざまなエスニシティを持つ人びとを無視し「排除」することによって,同質的な「われわれ」(日本人)を語り,空港建設に抗議した人びとのことを「ごね得」などといって非難することで(「ごねれば得」というのは実際にはありえないことだ),「公」のためには自分を犠牲にできる「われわれ」を称揚し,しまいにはどこかの教育委員会の不祥事の原因を日教組に着せて,自分たちを浄化している.
河村官房長官や野田聖子消費者担当相にとっては,これは人びとを「誤解」させる発言なのだそうだが,もちろんそれは,それこそ彼らの「誤解」以外のなにものでもない.国交相の発言──だけに限らず自民党のみなさんの「失言」のすべて──は「誤解」というレベルのものではない.だって,誰が聞いたって,間違いようもなく,差別発言じゃない,と.
2008年9月15日月曜日
「現実(ほんとう)の話」ってなんだ?
夕方立ち寄った三省堂書店の1階で,CourrierJaponの10月号を見つけて手に取ったところで,前号(9月号)を買っておきながら,まともに読んでいないことを思い出した.
それでもちょっとは読んでいたのだが…,家に帰っていくつかの記事を読む.しかし月刊化の前後でやはりこの雑誌はおもしろくなくなったように思う.これは意図してやっているのかなとも思うのだが,明らかに質の悪い記事を載せる.
意図して──というのはとくに「日本」,もしくは「日本文化」について語った記事においてなのだが,ジャーナリズムとして低レベルの文章というのは,たしかにある種の「参考」にはなる.だが,どうもそのような高次の記事作りをしているわけでもなさそう.
「誤解」ならまだカワイイのだが,あきらかに財界を援護し,資産家を安心させ,投資うながそうとしている意図が丸見えの「経済」ニュース──これもまたある意味では「参考」になる──にはちょっとうんざりさせられる.(ほんとうはこのような低俗なニュースに「経済」の2字を関することは,経済学界にとって迷惑なことであろう)
「国家」と「経済」──この2つの権力がからむところには,かならず問題を矮小化し,断片化し,相互連関の鎖を断ち切って,しまいには無化してしまおうとする勢力がいるものなのだろう.
「そろそろ現実(ほんとう)の話をしないか?16 エタノール悪玉説に待った!ブラジル産バイオ燃料の効率性」もそうした記事の一つ.記事の随所で,あるいは問題の焦点がぼかされ,あるいはさりげなく対象がすり替えられている.
まず食糧危機のさなかのバイオエタノール推進という先進国のおそるべき決断の全体に対する抗議は,ブラジル産エタノールへの批判というレベルに矮小化され,森林を直接に切り開くものではないとだけ断言して,エタノールの「新規栽培」のために消滅した畑や牧草地についてはいっさい言及しない.
サトウキビ由来のブラジルのエタノールと,トウモロコシ由来の米国のエタノールの効率性を比較するのに用いている数値はきわめておおざっぱで,そのおおざっぱなたった一つの指標しか提示していないのは結局著者が自分に──ひいてはこれを読む「経済人」に──都合のよい数値を用意したことを端的に語っている.
世界的な食料価格高騰問題にいたっては,ブラジル産牛肉価格の高騰という問題にすり替えられている.そして,読みようによっては現行サトウキビ・バイオエタノールの著しい効率性の悪さを指摘するかのような発言の引用もまた,「今後の可能性」をほのめかして投資を誘う.
たちが悪いのは,これにコメントを付け加える山形浩生である.「なるほど!サトウキビのバイオエタノールはそんなに効率がいいのか!」,そして「日本も…まずはこれを輸入して」いけばいいのに,だそうである.こういう「お利口さん」の口添えで安心させられる人もいるのだろう.
コメントの最後にはこうある.「それにしても…バイオエタノールまで産地の心配をしつつ使わなきゃいけないのか.面倒な話ではあるけど,…,中国産食品に目くじらたてるよりはずっと有意義なことでもある」と.
しかし,バイオエタノールと中国産食品とをくらべて,どちらが「有意義」とかいう議論はありえない.どちらも深刻で,十分に検討されるべき問題である.
しかしここでおそらくこの著者の言わんとしていることは,「中国産食品」問題について考えても要するに消費が低迷するだけだが,こうしてエコノミスト紙によってお墨付きとなったブラジル産バイオエタノールについて語るならば消費にも投資にも寄与するだろう,と,こういうことなのだろう.本当にあさましいことではある.
それでもちょっとは読んでいたのだが…,家に帰っていくつかの記事を読む.しかし月刊化の前後でやはりこの雑誌はおもしろくなくなったように思う.これは意図してやっているのかなとも思うのだが,明らかに質の悪い記事を載せる.
意図して──というのはとくに「日本」,もしくは「日本文化」について語った記事においてなのだが,ジャーナリズムとして低レベルの文章というのは,たしかにある種の「参考」にはなる.だが,どうもそのような高次の記事作りをしているわけでもなさそう.
「誤解」ならまだカワイイのだが,あきらかに財界を援護し,資産家を安心させ,投資うながそうとしている意図が丸見えの「経済」ニュース──これもまたある意味では「参考」になる──にはちょっとうんざりさせられる.(ほんとうはこのような低俗なニュースに「経済」の2字を関することは,経済学界にとって迷惑なことであろう)
「国家」と「経済」──この2つの権力がからむところには,かならず問題を矮小化し,断片化し,相互連関の鎖を断ち切って,しまいには無化してしまおうとする勢力がいるものなのだろう.
「そろそろ現実(ほんとう)の話をしないか?16 エタノール悪玉説に待った!ブラジル産バイオ燃料の効率性」もそうした記事の一つ.記事の随所で,あるいは問題の焦点がぼかされ,あるいはさりげなく対象がすり替えられている.
まず食糧危機のさなかのバイオエタノール推進という先進国のおそるべき決断の全体に対する抗議は,ブラジル産エタノールへの批判というレベルに矮小化され,森林を直接に切り開くものではないとだけ断言して,エタノールの「新規栽培」のために消滅した畑や牧草地についてはいっさい言及しない.
サトウキビ由来のブラジルのエタノールと,トウモロコシ由来の米国のエタノールの効率性を比較するのに用いている数値はきわめておおざっぱで,そのおおざっぱなたった一つの指標しか提示していないのは結局著者が自分に──ひいてはこれを読む「経済人」に──都合のよい数値を用意したことを端的に語っている.
世界的な食料価格高騰問題にいたっては,ブラジル産牛肉価格の高騰という問題にすり替えられている.そして,読みようによっては現行サトウキビ・バイオエタノールの著しい効率性の悪さを指摘するかのような発言の引用もまた,「今後の可能性」をほのめかして投資を誘う.
たちが悪いのは,これにコメントを付け加える山形浩生である.「なるほど!サトウキビのバイオエタノールはそんなに効率がいいのか!」,そして「日本も…まずはこれを輸入して」いけばいいのに,だそうである.こういう「お利口さん」の口添えで安心させられる人もいるのだろう.
コメントの最後にはこうある.「それにしても…バイオエタノールまで産地の心配をしつつ使わなきゃいけないのか.面倒な話ではあるけど,…,中国産食品に目くじらたてるよりはずっと有意義なことでもある」と.
しかし,バイオエタノールと中国産食品とをくらべて,どちらが「有意義」とかいう議論はありえない.どちらも深刻で,十分に検討されるべき問題である.
しかしここでおそらくこの著者の言わんとしていることは,「中国産食品」問題について考えても要するに消費が低迷するだけだが,こうしてエコノミスト紙によってお墨付きとなったブラジル産バイオエタノールについて語るならば消費にも投資にも寄与するだろう,と,こういうことなのだろう.本当にあさましいことではある.
2008年9月7日日曜日
また,古い道新を読む
2008/7/30日刊11面 - 「燃料サーチャージ トラック業者12% 全国調査」
燃料価格の高騰にも関わらず,価格高騰分を運賃に反映させる「燃料サーチャージ制」を導入しているトラック運送業者は,全国で12%,そのうちでもすべての荷主に対して同制度を導入できているのは1.4%.
同制度以外の方法も含め,何らかの形で価格高騰分を運賃に転嫁しているのは55.9%にとどまり,しかもその半数はやはり一部の荷主が対象.
農業,畜産業,漁業の問題でもそうだけれども,原料費やこれに似たどうにも節約しようのない出費を,商品・サービスの価格に反映できない状況・社会構造はあまりに不条理.
2008/7/29夕刊5面 - 「私のなかの歴史 民族の誇りを胸に② 北海道ウタリ協会理事長 加藤忠さん コタン 食卓に母手製 伝統料理」
「私のなかの歴史」の加藤忠氏の連載(~8月12日夕刊まで).
記事のタイトルにもかかわらず,まず興味深いのは,加藤氏が生まれた当時──加藤氏が生まれたのは1939年──の「敷生コタン」(白老町萩野)の生家と,その周囲の情景についての記述.
「コタンには伝統家屋のかやぶきのチセが多く残る時代でしたが,私がものごころつくころには〔加藤家は〕木造の家で暮らしていました」というところ(〔〕は引用者が挿入).
また,母親はアイヌ語・アイヌ歌謡はしなかったが,「オハウ」を作ってくれたし,「年末に塩と酒で大地を清める伝統行事『イチャルパ』だけは続けていました」と.
文化というものは案外粘り強く残るものである.
チセの建築については大阪のみんぱくで見たビデオの,いかにも復元の努力をしている,という風の印象(すくなくとも記憶の上ではそのような印象)が強いが,これは捉え直しが必要かな.
燃料価格の高騰にも関わらず,価格高騰分を運賃に反映させる「燃料サーチャージ制」を導入しているトラック運送業者は,全国で12%,そのうちでもすべての荷主に対して同制度を導入できているのは1.4%.
同制度以外の方法も含め,何らかの形で価格高騰分を運賃に転嫁しているのは55.9%にとどまり,しかもその半数はやはり一部の荷主が対象.
農業,畜産業,漁業の問題でもそうだけれども,原料費やこれに似たどうにも節約しようのない出費を,商品・サービスの価格に反映できない状況・社会構造はあまりに不条理.
2008/7/29夕刊5面 - 「私のなかの歴史 民族の誇りを胸に② 北海道ウタリ協会理事長 加藤忠さん コタン 食卓に母手製 伝統料理」
「私のなかの歴史」の加藤忠氏の連載(~8月12日夕刊まで).
記事のタイトルにもかかわらず,まず興味深いのは,加藤氏が生まれた当時──加藤氏が生まれたのは1939年──の「敷生コタン」(白老町萩野)の生家と,その周囲の情景についての記述.
「コタンには伝統家屋のかやぶきのチセが多く残る時代でしたが,私がものごころつくころには〔加藤家は〕木造の家で暮らしていました」というところ(〔〕は引用者が挿入).
また,母親はアイヌ語・アイヌ歌謡はしなかったが,「オハウ」を作ってくれたし,「年末に塩と酒で大地を清める伝統行事『イチャルパ』だけは続けていました」と.
文化というものは案外粘り強く残るものである.
チセの建築については大阪のみんぱくで見たビデオの,いかにも復元の努力をしている,という風の印象(すくなくとも記憶の上ではそのような印象)が強いが,これは捉え直しが必要かな.
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