2008年12月29日月曜日

「予言者」──つまり当世のご用政治学者・ハンチントンが死んだ

「文明の衝突」のS・ハンチントン氏が死去 | ワールド | Reuters
米ハーバード大学は、著書「文明の衝突」で西側諸国とイスラム世界との対立を予見した政治学者のサミュエル・ハンチントン氏が24日、マサチューセッツ州の介護施設で死去したと発表した。81歳だった。

世界を戯画化し、ベタ塗りの色分けで理解しようという試み、そしてそうした「理解」を相対化できない稚拙な「科学」。

そうして今日の世界情勢を目の当たりにしながら、「西側諸国とイスラム世界との対立を予見した」などと「賛辞」を贈ることに躊躇のないロイターは、三流ジャーナリズム以下である。ようするに彼らは世界を見ずに「世界」を報じているわけである。

ふつうにニュースを見ていれば/読んでいれば、そこにある「世界」で起きていることは、「文明の衝突」などというスペクタクルではなく、小型大型を問わない武器の拡散と、国家による露骨な国際法違反と国際社会の沈黙、そして市民レベルではどうしようもなく短絡的な排外主義、そしてそれを支持基盤としようとする集団の台頭──こういった例のごとく人をして失意させたり憤慨させたりする事実の集まりでしかない。

結局のところ、ハンチントンが「政治学者」でありうるのは、彼がそのどうしようもなく単純化された「予言」によって
マスメディアやデマゴーグたちに奉仕したということ、その事実において限りのことであろう。

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2008年12月26日金曜日

Safariの「開発」モードにあ然とする日


JavaScriptを使用したウェブページの動作確認をしたくて、Safariで表示してみたところ何らかの異常があって、スクリプトがうまく動作しない。

「編集」→「設定」の、「詳細」タブで、メニューバーに「開発」メニューを表示するよう設定変更。これでJavaScriptのデバッグができるかと思いきや、「エラーコンソール」に出力されたのはただ一言。


「Parce error」。


人は、こんな「情報」を元にして、何をかできるのだろうか?
Apple社製品のために何かを開発せねばならない人びとは不幸だな、と思ってしまった。

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2008年12月22日月曜日

GMailUIが便利

今さらといえば今さらなのですが、Thunderbirdの拡張機能、GMmailUIが結構便利です。

今年の夏にThunderbirdユーザーに復帰して、しかしどうも不足を感じるのはGmail流のメール検索です。メールのフォルダによる分類管理を諦めて久しい今日、大量のメールの中からその場その場の目的のメールを探し出すのは結構困難になってきました。

問題はThunderbirdの──これは他のアプリでも言えることでしょうけれど──「簡易検索」の入力欄が、「件名」、「送信者」などなどをまず選んでから検索文字列を入力して検索する、という手順を踏まねばならないことです。「“簡易”検索」なのだから仕方ないといえばそれまでですが、不便には違いありません。

この拡張機能を導入すると、「from: (だれそれorメアド) to: (だれそれorメアド) tag: (タグ名)」などと複数条件の文字列を入力して詳細な検索を実行できます。また「/」キーを入力することで、「簡易検索」欄にフォーカスが移動します。もう一々マウスカーソルを画面右上に移動して「簡易検索」欄をクリックする必要はありません。

ほかにも機能はあるようなのですが、まだ理解できていませんし、当面これだけで満足です。

開発者による説明: GMailUI ‎(Ken Mixter‎)

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2008年12月21日日曜日

Apacheが止まった…

この土日、Web制作のボランティア/アルバイトしているNGOの、メインのウェブサーバーで、HTTPサーバーが停止した。
土日ということが主な理由と思われるけれども、ハードを担当している人には連絡がつかず、結局2日間、ウェブサイトが完全にアクセス不能になったまま。

今年の4月には、サーバーのHDDが壊れて恐ろしい目にあったばかりでもある(しかもこのとき、実はRAIDにしていなかったという信じられない報告を聞いた)。今回はデータは消えていないはずであるけれども、問題はまるまる2日間もウェブサイトがアクセスできなくなった──しかもウェブサーバーが動いていないのだから、「現在メンテナンス中」云々のメッセージすら返せないという、このことの影響は計算不可能ではあるけれども、実際のところ軽んじられないことも明らか。

結論としては、勿論いくらボランティアによる管理だからといってもこうしたトラブルになすすべなしというのでは困る、ということで、ハードの管理に複数人であたることにするか、それができないならば有料のホスティングサービスを利用するかである。ボランティアの、しかも分業体制の、難しいところである。(前者については、ようするにセキュリティ対策の「本気度」──商売人なら即「本気」であるとは言い得ないが──の問題。後者については、「それくらいは当然やってくれると思っていたのに」という、委任の失敗の問題である。)

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2008年12月19日金曜日

Dreamweaver CS4 体験版を入れてみた

Adobeの他の製品とともに、Dreamweaver CS4がリリースされたので──というのもヘンなのだけれど、CS4の体験版をインストールして、ほんのすこし使ってみた。

【感想その1】

まったく意外にも、インターフェイスがダサい。

【感想その2】

改行文字によらない、テキストの自動折り返し表示が可能なのが便利。しかしそれ以外に魅力がない──というかこの程度の機能すら提供していないEclipse、Aptanaの開発コミュニティの思考回路が理解できない。

(訂正:Aptanaには自動折り返し機能が用意されていた。ここのところのアップグレードで備わったものか、あるいははじめからあったのに気付かなかったのか。何にしてもAptanaの設定項目であって、Eclipseのそれではないようだけれど。)


【感想その3】

いうまでもなく、あまりにも機能が多く、理解できない。Adobe製品は、寡占状態での製品開発と認定学校でのユーザ養成という、独立性の高い界のなかにある。


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2008年12月13日土曜日

加藤周一『読書術』

加藤周一の『読書術』を読んでいる。

実用書や啓発書の類はどうしても読みながら著者を軽蔑するこころがどこからか湧いてきてそちらと戦うのに一苦労であったりするのだが、やはりそれは著者次第ということなのだな、と思う。文体はとても読みやすいし、軽薄のにおいもない。

今まで読んだところまででは、それと明言はしていないが、加藤の語りかけの対象があきらかに「男性」に限定されていることや、「国民性」を懐疑・躊躇なしに語るところなど気になる部分もあるが。そんな加藤を相対化して吸収することにそれほど苦労はない。

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2008年12月7日日曜日

それとなく規定すること──「女」はあくまでも「女」と

北海道新聞でおもしろい記事を見つけた。

黒木メイサ、男装麗人に挑戦 スペシャルドラマで主演-北海道新聞(文化・芸能)
戦時下に美ぼうの女スパイとして、時に“男装の麗人”として名をはせた川島の生涯を描いた物語で、黒木は14歳から35歳までの役に挑戦した。……報道陣から「もし男装できたら何をしたい?」と聞かれると、「体まで(男に)変えることができたら…上半身裸でビーチに行きたい」と大胆発言も飛び出していた。

何が、どこが、おもしろいのか。
おもしろいのは「上半身裸でビーチに行きたい」というのが「大胆発言」とされている部分である。

第1に、黒木が「女性」性と「男性」性とを創り出す/に創り出された境界線を「報道陣」の前に明示していること。「女性」と「男性」とで、それぞれの「世界」の「体験」──つまりやさしくいえば「生活」そのもの──が、いちじるしく非対称であることについて言明していること。その「言明」がその「当人にとって明らか」であるかどうかは、この際問題ではない。それを読んだ「私」に「それ」が伝わっただけで十分である。

第2に、黒木がそうして境界線を示した──つまり「女性」性から「男性」性へと、一時的ではあっても「越境」してみせたことに、この記事を執筆した記者は気づかず、もしくは意図的に無視したこと。つまり記者にとって黒木はあくまでも「女」であって、その「彼女」が「上半身裸」なので、「大胆発言」なのである。そのように考えなければ──異邦人は本国に送還されたと考えなければ、「大胆発言も飛び出し」た、という部分は説明がつかない。

「女性」性の規定(束縛)についてより細かく言えば、記者にとって黒木は「女」である、というレベルと、芸能記事において黒木は「女」である、というレベルがあって、これらが組み合わさっているように思われる。両者の(「記者」個人と「芸能記事」という界の)背後には、社会構造というものが想定される。

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2008年12月6日土曜日

ベンダー提供の拡張機能

現在使用しているPCは、Lenovo ThinkPadで、そこにウィルスバスターやBitTorrentをインストールしているので、都合3つのベンダー提供拡張機能がFirefoxに登録されている。
アプリ本体のインストールと同時に拡張機能もインストールされ、「削除」はできない。

ところがウィルスバスターの付属の拡張機能はデザインや使い勝手の面であきらかに「手抜き」で、邪魔なので無効化してある。
しかしこれはましな方で、ThinkPadのThinkVantage Password Managerは そもそもFirefox3に対応していないし(なのにアドオンリストには図々しく載っている。もちろん最初から「無効」になっている)、 BitTorrentも──たしかFirefox3.0.0のころには「有効」だったはずだけれど──現在では非対応で「無効」になっている。

どうせ「有効」であってもおそらく使用しない機能であるから、あえてバージョンチェック無効化などのハックもせずにいる。しかし何にしてもベンダー提供の拡張機能が揃いも揃ってこの状態で、なんともみっともないことである。

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2008年12月5日金曜日

「自己満足」言説の自己満足

別に新しいことではない。ボランティアだとか慈善活動だとかのことが友人・知人同士のおしゃべりの中で話題になるとき、「ボランティアってけっきょく自己満足でしょ」という発話がたまに聞かれる。最近も1名そういうのがあった。

一般的には、そもそもこうした発話──「自己満足」言説に真剣に応答するような必要性もないように感じられるので、黙殺可能ならばふつうそうしている。つまるところこの類の言説は、論理的にはナンセンスなものだからである。「おしゃべり」という社会的な場(シャン。champ[field])の中で、生き残る価値のない無意味な発話だからである。しかしこの言説には──現にそれがときたま用いられるということが何よりの証左だと思うのだが──戦術的な意味はあるように思われる。

「自己満足」ということばは何を意味しているのだろうか。それは今日の社会では、「善意」というようなものに対する否定的な/批判的な感情の吐露──というコンテクストとの結びつきが強いということはだいたい言えよう。そうしたコンテクストにおいて、このことばには「独善的」「独りよがり」といった意味も込められていよう。あるいはまた、「効果測定の不可能性」という冷静な視点(もしくはそうした視点を装ったもの)もあるのだろう。

けれども、前者の論点──ボランティアや慈善活動というのは「独りよがり」のものだ──というのは、そうした活動に携わる人びとの意識のレベルでいえば、様々な社会問題の中にある「当事者」に真摯であろうとする努力を根拠もなしに否定することである。そうした発話をすることが、「おしゃべり」の場で有益であり得るわけがない。あるいはもっと冷めた考え方も可能である。もちろんすべての人は意識的であろうと無意識的であろうと自己を満足させるために行為するのだ、と。他人を助けること、他人に奉仕すること、他人のために戦うこと、他人のことを考えること、他人のこころを満足させること、それらの行動の対価も突き詰めれば自分自身の満足という形で支払われるほかはない。「自己満足」言説は、発話の意味のレベルでも、論理のレベルでも、ナンセンスなものである。

それにしてもこうした論理的な(と僕は信じているが)批判というのは、それはそれであまり意味をなさないようにも思われる。それは後者の論点──ボランティアの効果は測定できないししばしば効果はない──についても同じである。こうした発話をする人には、その発話の事実にもかかわらず、そもそも「善意」にもとづく行為の「効果」を「測定」したこともないであろうし、今後もそうするつもりはないであろう。対案を示す意図などさらさらないのである。それは、ようするに自分自身の発話の根拠を度外視した、批判のための批判である。

ではなぜこのようなこと──無意味なコメント、時間の浪費、自分自身の白けをことさらにアピールする醜態、得意満面の「自己満足」非難を押し売りする「自己満足」、自身の社会的地位をあえて危険にさらすような不思慮──がくりかえし行われるのか。
まさに、こうしたナンセンスさと、言説そのものの意味内容が定まらないことから、そしてまた「おしゃべり」の場に参加している当事者の感覚(サン。sens[sense])とから、なんとなしに示唆が与えられている。

この場(「おしゃべり」という場)の中では、ほとんどあらゆる発話はその発話の論理的に意味することを以上の意味を持っている。それは言外の意味であり、場合によってはその場に参加している参加者にもはっきりとは意識されないかもしれない。それどころか、「自己満足」言説の発話者自身ですら意識していない可能性がある。

言外の意味にはさまざまな種類があるように思われるけれども、代表的なもののひとつに相手の「同化」を促す、というのがある。同化とはここではAさんがBさんの「側につく」ということである。それは「おしゃべり」の場で集団を構成しようとする試みである。この行為は実際には「排除」を同時的にともなう。AとBが「同じであること」を示すことは、結局のところCはAともBとも「異なること」を示すことによって達成される。あるいはAは、BやCから自分を区別し、その場には存在しない集団に「同化」することを試みるかもしれない。こうしてみると「同化」のプロセスというのは、社会的アイデンティティ──社会的位置ともいえようしこれ自体がまた「場」でもある──を規定する(規定し合う)プロセスであるともいえよう。

そしてそのためにこの「場」で、戦術的にやりとりされるのが「発話」という単位である。ここには文字通り音信号としてやりとりされるものの他に、メタレベルの言語(ジェスチャや「発話しないということ」など)も含まれる。

さてしかしここまで来て、では「彼ら」はあの無意味な言説(社会学的に有意味な「言説」)を用いていかなることをなそうとしているのだろうか、ということは結局はっきりはしないように思われる。それぞれの発話者の戦術的な意図を知るには、発話者の社会的位置を把握する必要があり、その社会的位置の社会的位置がいかなるものかも考える必要があるだろう。


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2008年12月3日水曜日

『国語という思想』を読んだ後に『日本語が亡びるとき』を読む

イ・ヨンスクの『「国語」という思想』を読んだ後に、水村美苗『日本語が亡びるとき』を読み始めた。
しかも『「国語」という~』の前には、ベネディクト・アンダーソンの『増補 想像の共同体』を読んでいた。
おそらくこの順序がまずかった──否、むしろ幸いしたというべきか。

問題となったのは、三章の「地球のあちこちで〈外の言葉〉で書いていた人々」。
ゼミの課題として読んだのだが、水村の用語法のまずさや、『想像の共同体』の読み込みの乱暴さに終始困惑を覚える章である。
この章のなかで繰り返し使用される、「本質(的)」という語もまた、その使用方法がいかにも軽々しい。

用語法

用語法については、水村は「国語」という用語を、①国民国家以前のエスニックな集団の俗語はもちろん、②ある領域における公用語のようなものについても用いようとしているように思われる。これがまずあまりにも衝撃的で、困惑を引き起こす部分である。これが物書きのすることなのか、と。

この語が、日本の学校教育で教えられる「日本語」を思い浮かべるにしろ、あるいはもっと露骨に日本政府の委員会などを想起するにせよ「公的」「政策的」な意味を負っていることは(僕にとっては)明らかなことと思われるし、何よりも「国家語」ではなく「国語」といえば、それは自然にその「語」の背後に国粋主義的もしくは民族本質主義的とでもいうべき思想が控えていることを示しているように思われる。

122~123ページの、ホモ・サピエンス=叡智のある人=書き言葉の使用者=人類、という等式が成り立ちそうな記述にも大いに疑問が湧いてくる。仮に、ホモ・サピエンス=叡智のある人=書き言葉使用者=人類、という式が成り立つならば、それはメタレベルの「人類」の社会的存在形態の一つでしかない。そうでなければ、無文字社会≠人類社会、という恐るべき「本質」が導き出されるまでである。

想像の共同体

『想像の共同体』の読み込みも(おそらく意図的なものだと思われるが)言語偏重。
とくに「同じ言葉を共有する人たちとは同じ共同体に属する、という思いが生まれてくる」(112ページ)というのは、偏重を超えて、明らかに誤読である。こんな解釈は許されないはずである。実際には、言語は共同体の想像のための必要条件ではあっても十分条件ではない。

言葉(出版語)を共有してれば共同性が想像され、ナショナリズムが生まれ、しまいには「無名兵士の墓」が築かれる──ワケがない。水村の「紹介」は、まるっきり自生的な(spontané)「民族自決」論(言語、宗教、その他の文化を指標にして「民族」は共同体として把握することが可能であり、その共同体が国家を形成することは自然なことであるとする言説、そしてそうした「論理」で国家を正統化する言説)である。

水村は『想像の共同体』に引用されているヘルダーのことばを引いているが(112ページ)、そのヘルダーのことばの直後にアンダーソンが付した軽蔑的もあらわなコメントについては読み飛ばしてしまったようだ。

学問

また、「学問」は「普遍語」──「国語」(水村のいうそれ)よりもはるかに大きな範囲をカバーする言語(ラテン語、漢文、フランス語、今日の英語など)──でなされなければ「本質」に背くと水村はいう。

端的に言って、学問界(という界/場)の相対的独立性を強調しすぎるので、こういうことになるのである。
学問する者たちの「市場」は彼らの「界」の中にのみ存在するのではないし、むしろ彼らはいつも何らかの外部──そう、「貢献する」対象である!(ex. 国民[フォルク])──を想定してきたのであり、近代以降はますますそうであったはずである。

134ページ前後で、「翻訳」の「本質」について述べている部分も、「本質」という言葉が軽い。水村によれば「翻訳」とは、「普遍語」の知識のライブラリから知識を取り出して「国語」(水村のいうそれ)のライブラリを建設・拡充するという作業なのだそうである。しかし〈俗語―国語〉翻訳は〈普遍語─国語〉翻訳に対してここで語るには足らない、というのであればまだしも、前者が「本質」でないとまでするのは乱暴としかいいようがない。


……以上のような次第で、『日本語が亡びるとき』を読む場合には、それなりの「構え」を持って望んだ方がよい、ということになりそうである。

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Songbird 1.0

Songbird 1.0 is Released!
We set out to build an open, customizable music player. Today, we're launching with dozens of integrated services, hundreds of add-ons, and a growing developer community. We'll be the first to admit that there's plenty left to do. And, while we're not ready for everyone, 160k users a month are expressing their vote for an alternative music player.
Mozillaのテクノロジを基礎に開発されているジュークボックス・アプリ(っていうの?)、Songbirdがとうとうバージョン1.0としてリリースされたとの由。

Windows上で多少使用したことがあるのだけれど、残念なことにいまだにCDなどから楽曲を取り込む機能は持っていない。iTune Storeへのアクセスもまだできない模様

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