昨日(10日)、芝公園内で開催された東京イチャルパに参加(観覧)してきた。
戊申戦争が函館で終結後、蝦夷地(現在の北海道島と千島・樺太)を支配するためにできた開拓使は、明治初期には東京の芝増上寺に、その本庁を置いていた。
1872年、開拓使はこの増上寺境内に「仮学校」を設立して、その中の「旧土人教育所」などに北海道から30数名のアイヌを送り込んだ。
1870年代は、この開拓使によりアイヌ「教育」の試みが行われる時期で、道内でも強制隔離就学の試みが行われていたらしい。
東京における「教育」は、行方不明者、病死者などを出し、また大半のものが希望して帰郷したとのこと。
イチャルパは、この一件で、異郷において亡くなったアイヌと「何らかの理由で北海道を離れ関東で亡くなったアイヌも想い」行うものと(上記ページ参考)。
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仮学校跡(現在は遊具などのある公園となっている)の会場は、大きな銀杏の木の下に、祭壇と細長い囲炉裏のようなもの、ござやビニルシートなどが敷かれていた。
予定時刻から10数分たってイチャルパがはじまった。
囲炉裏を囲んで、男性の正装をしたものが第一列、その周りに正装の女性たちが座る。周囲、とくに祭壇の向いに僕のような一般の参加者・見学者たちが座ったり、立ったりで、ようすを見守る。
供養の儀式は、男性たちが進める。そのうちでも比較的若い人たちが、年配者の動作を見てまさに今学んでいるようなようすは、ふつうのいわゆる「お葬式」などとも似ているが、真剣さはちがう。
高さのある漆器の杯にお酒(トノト)を継ぎ、これを独特のへら状の箸(イクパスイ)ですくい、囲炉裏の火のカムイに振りかけながら、語りかける。
長谷川氏は、まずアイヌ語で語り、次におそらく同様のことを日本語で話す。その後囲炉裏を囲んだ男性と女性とで、残りのお酒を飲む。これを繰り返したあと、男衆は立ち、祭壇の削りかけ(ヌササン)の前にゆき、ここにもお酒を振りかけ、何か礼式のことをした。
その後、祭壇の横に長谷川氏が、いくつもヌササンを立て、これに女性たちが何かまた供養のことをしていたよう。
このころになると会場の人びとは互いに話したりして、ゆったりしている。最後に、また長谷川氏がアイヌ語と日本語とで、カムイにお願いごとなどをして供養の儀式は終わった。15時くらいか。
その後、女性、男性、あるいは双方混じって、舞踊、輪踊り、輪唱などがあり、見学者も手拍子を打つ。これも若い人たちにとっては貴重な学習の機会で、おそらくある種の緊張があったのではないかと思う。
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儀式のあいだ、「スタッフ」という腕章をつけた人、そうでない人、メモ帳とペンをポケットにいれている人など、いろいろの人がカメラやビデオカメラで、会場を撮影していた。
そうした人びとはもちろん「仕事」でやっているので、立ったり座ったり、歩き回ったりなのであるが、彼らは一種、透明で中立である。ところが僕の方はといえば「ちょっと見てみたい・知ってみたい」という何だか気まずい動機でやって来ているのだから、あれこれじろじろと微に入り細に入りとはやりたくない。そうする必要がない。
それで儀式のようすや、囲炉裏端で話されたことは、あまりちゃんとわからないのだが。
会場の人びとの正装は、紺やそれに近い色の木綿地に刺繍や切り伏せで文様をほどこしたものであった。アットゥシ(樹皮を用いた布)などは見られなかった。文様は色も形もいろいろであったが、渦巻き状の模様が多用されるもの、直線と直角とが強調されているもの、木の葉や花のモチーフが縫い込まれたものなどいくかのパターンがあり、したがって幾人かの縫い手によるものなのかもしれない。
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数日前の恐ろしい暑さと比較すればかなりすごしやすい天気で、大変助かった。
6月末から7月初旬にかけての北海道旅行から東京に帰った直後、オヤがガン入院し、家に残された僕はといえば1週間おきに風邪をひくという虚弱さで、これで猛暑であったら(オヤを世話する必要からなんとしても必要な)自分の健康のために、今回の観覧を取りやめなくてはならないところであった。余談。
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